静坐の友(季刊誌)

第18号 六十年の静坐 東京 加島 直吉 氏

一.静坐とのご縁
 独座の坐禅でのふしぎな体験
 旧姓中学五年(今の高校二年)の頃のことです、当時、死の病といわれた肺結核の初期との診断を受けていました。進路もままならず、不登校となってしまいました。そんな折に、奥まった自分の部屋で座禅をしたのです。数十分、真剣に結跏趺坐していますと、ふしぎなことが起こりました。身体が溶け出すように周囲と一体となり、それはよい気分になりました。体中に気力がみなぎり、どっしりとした肚の座った状態になったのです。私は自己の人生に活路が開けたように感じました。

 つぎの日から、このすばらしい体験の再現を求めて座ったのは、いうまでもありません。しかし、どうしたことか、あの状態にはなれませんでした。しかし、このようなすばらしい世界があることを知ったことは、私の人生の一大転機となりました。

禅道場入門と沢木興道先生との出会い
 大法輪で知ったのか、当時、座禅の第一人者であられた駒沢大学教授の沢木興道先生に手紙を差し上げたのでした。そして、芝高輪の禅道場に通うことになりました。三十分ほど先ず座り、その後、先生を囲んでお茶飲み会がありました。先生は誰に言うともなく、「座禅は何の役にも立ちません。宮本武蔵が座禅をして一流の剣士になったなどというのは、あれはウソです。」と、言われるのでした。そこに居られたのは、中年の女性ばかりで、男は私ひとりだったように思うのですが、私は気にも留めずにいましたが、毎回、同じようにおっしゃるので、救われようとして来ていた私は、わからなくなってきました。片道二時間の道を遠しとせず、しかも、休養日の日曜に参座していただけに、先生の講話も、さっぱりわからず、遂に一年半ほどで止めることになりました。

橋本五作先生の「静坐の力」との出会い
 それでも、あのふしぎな体験は、体にしみついて忘れ難いものでした。
 そんな時に出会ったのが、神田の古本屋での「静坐の力」でした。ふと手にして、数ページを読んだ時、その迫力のすさまじさ、効果のほどを自らの裸の写真で具体的に示しておられて、説得力がありました。先生が教育関係であられたことも、心をひかれた一つでした。

二.世田谷静坐会へ入会
 なんと、先生は自校の先輩でもありましたので、早速事務所へ行き、名簿をあたりました。しかし、残念なことに、先生はすでに他界しておられました。そこで「静坐の力」の中に出てくる方々の名前を便りにしらべ、足立芳の助先生を探し出しました。先生は当時大阪在住で、東京の二ヶ所の静坐会を教えて下さいました。当時、学生でしたので、日曜の、世田谷静坐会の深田先生へお手紙を差し上げました。入門を許された先生の宅での静坐会は、青山学院生の森田さんと私の二人でした。

 今覚えているのは、背筋をきちっと伸ばすこと。先生は私の体を持ち上げて、ドサッと下ろされるようなことをされました。しかし、肚に力を入れると鳩尾の辺りが一枚板のように固くなり、顔面が硬直して、なかなかうまくゆきませんでした。
 先生は時に、後の雁が先になることがあると言われましたが、後から参座された方々は上達して、先の雁の私は置いていかれたような有様でした。しかし、それでも、あきらめずに続けられたのは、つぎのようなことがあったからです。

三.あきらめずに継続した理由
少年時代の体験
 あの少年時代の「大宇宙との融合」という実体験は、体にしみついて、それへの渇仰は日増しに募るばかりでした。

「静坐の力」の影響
 橋本先生が教育者であり、その著書も、単なる理論でなく、自らの実践の書で、しかも多くの門弟を輩出し、教育界に多大な影響を及ぼしておられたことに、私は教育での「人格の感化」ということを実感し、ぜひこのような人になりたいものとの思いは切なるものがありました。

小林信子先生との出会い
 昭和二十七年(一九五二年)、日暮里の本行寺に、関東一円の静坐者が参集して、小林信子先生を迎えた会がありました。深田先生に勧められて、森田さんと二人で参坐しました。

 その時、信子先生と同窓生が並んで座っておられたのですが、その差がまるで親子ほどに感じられてびっくりしました。修行によって、こうも魅力あふれた、みずみずしいお姿を保てるものなのかと。そして、先生から親しくご指導をいただいたのですが、この時の感動は以後の強い推進力となりました。

岡田先生のお言葉
 「行き先を忘れて登る不死の山」

 このお言葉は、沢木先生のお言葉と同じく効用を考えず、ひたすら座る、只管打坐の心構えを示されたものとして、常に心に念じて、座る時には、功をあせらぬようにと、自らを戒めております。

静坐による効果の実感
 鳩尾の問題はありましたが、呼吸はしっかり行っていましたので、気はそれなりに充実して、夏の暑さも気にならず、病気一つしませんでした。

四.京都静坐会への参坐
 鳩尾の固さはとれず、世田谷静坐会も、先生が亡くなられていましたので、平成二年の退職を機に、夏の京都静坐会に参坐させていただくことになりました。京都静坐会では、静坐中に多くの先生方が、つぎつぎに巡ってこられて、ていねいにご指導下さいました。前と異なり、前傾姿勢で、鳩尾を重視されていました。私は一枚板の固さが徐々になくなっていきました。ただ、力はなかなか入りませんでした。入れようとすると、やはり鳩尾が固くなるのでした。

五.最近の静坐
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば、百戦殆うからず」というのがありますが、己(自分の状態)を知るということは、存外おろそかになっていることを痛感しました。私自身、無類の胴長であることはわかっていましたが、静坐の上で、それを自覚することはありませんでした。胴長の人は静坐に適さないと小耳にはさんだことはありましたが気にもとめていませんでした。近年になって、胴の辺り、すなわち鳩尾周辺が広く、力を抜くべき鳩尾周辺に、いつも力が及んでいたのだと気づきました。

姿勢と静坐
ボイストレーナーとの出会い
 この「己を知る」は姿勢でも同じでした。私は吟詠講座を受けるにあたり、ボイストレーナーの先生の許を訪ね、指導を乞いました。先生は、まず、姿勢を前傾に直し、顎を引くように矯正したのでした。反り気味の姿勢であったとは、それまで全く知りませんでした。

達磨大師のように
 静坐中の腕の位置がいつも気になり邪魔に感じていました。ある時、静坐中に両腕を体に縛りつけるようにし、さらに、昔、岡田先生が相馬黒光女史に「胸が動く」といつも言われていたのを思い出し、動きを止めて呼吸をしたのでした。すると、雷鳴(「静坐の力」の中での言葉)が聞こえ、腹が動くのが実感されたのでした。これを続けますと、長年の肩凝りが、うそのように直ってしまいました。達磨大師の脚のないのはわかっていましたが、手のないのが、始めて納得された気がしました。

柳田先生のお言葉
 かなり前のことですが、田舎の自宅での静坐会で、柳田先生のご指導を受けたことのある宮本さん(画家)が、先生は「地球の引力を利用して座るのだ」とよく言われていた、という言葉が耳に残っていました。力を抜きどっしり構え、しっかり腰を立てると共に、おもむろに肚に力を加え、京都静坐会の指導書にある、腹を置いておく気持ちと同じ要領で、力を入れるのです。すると、鳩尾を含む上半身の力が抜けて、そこに力が入らずに下肚だけに力が入るのでした。

豪釐の差は天地の差である(岡田先生のお言葉)
 世田谷静坐会での背筋をぐっと伸ばして座る、というのは、老いると、より魅力的で、必要感を覚えていました。そこで、これを座中に実行してみました。ところが、何か知らず、肩が凝るようになりました。原因不明でいた時、ふと玄関の姿見の鏡を見ると、何とまた、反り気味の姿勢になっていました。私は、つくづく、岡田先生の「豪釐の差は天地の差となる」のお言葉をかみしめたしだいです。基本に忠実に座ることの大事さを再確認しました。