自己紹介
田原静坐会から参りました竹本行雄と申します。田原は、岡田虎二郎先生の郷里です。静坐会は、池の原会館という所で、毎月第三日曜日の午後二時から開いています。まず、一坐し、次に岡田先生の語録を読みます。休憩の後に第二坐を行い、静坐終了後、お茶を飲みながら懇談するという流れで行います。
静坐会は、静坐を志す人の交流の場であり、岡田先生の言葉を共有する場であると思います。「一人では坐れない。みんなと一緒だから坐れる。」ということが実感をもって理解されます。静坐会に参加することで、「生きる力」をいただき、また次回も参加しようという気持ちになれます。特に、十月は岡田先生御逝去の月です。皆さま、十月に田原静坐会にお出かけください。
私は、二十四歳のときから現在まで約四十年間静坐を続けています。二十四歳の頃の私は疲労困憊していて、なんと読書中に「彼」という字が「疲」と読め、自ら驚いたことを憶えています。「これはいけない」と思っていた時、父が静坐を勧めてくれました。
亡父(竹本和夫)は、戦前の旧制中学校時代から静坐を実践していましたが、私に対しては、この時まで静坐を勧めることを一切しませんでした。ただ、岡田先生の肖像写真は、わが家の仏間に掛けてありました。したがって、私は幼少のころから、岡田先生の写真を見ており、その人を誰とも知らず、ひそかに尊敬していたのです。その人が岡田先生であったことは、静坐会に入ってから知った次第です。後で考えますと、これは父の無言の勧誘であったと思うのです。明るくて活気のある眼、見る人に安心感を与える立派なお顔であります。
姿勢のこと
「健康体の姿勢はS字形」という言葉は言い得て妙です。ゆるやかなS字形が背骨の自然形です。S字の下のカーブを作りには、腰を反ります。ところが、腰を反りますと胸が出てしまいます。その出た胸を引くことによって上のカーブを作るのですが、この胸を引くということがなかなか上手にできません。
胸を引く工夫としては、丸い柱を抱きかかえるようにして両腕で輪を作ります。すると、胸のところがくぼんで、懐が深くなります。胸を張らない謙虚な姿勢になります。あたかも優れたお方の前にいて少しお辞儀(前傾)をしているような格好です。
胸を引くと同時にアゴと鳩尾を引き、下腹に銃身をおろします。「胸が出ていると呼吸ができない。深い呼吸ができないと下腹に力が十分入らない。」という関連性をよく確認する必要があります。
呼吸のこと
「呼吸は鳩尾でする。胸は動かさない」ということを強調したいと思います。人間の肺は肋骨の保護の中にあります。保護されてはいますが、牢屋に閉じ込められていて自由に身動きができません。しかし、自由に動くところが一か所あります。それは、肺の下部、肺底です。その部分は肋骨の束縛がないゆえに、自由に動きます。ここが鳩尾です。
呼吸にともなう鳩尾の動きは、吐く時に沈み(背中側に引っ込み)、吸う時に浮く(前方にふくれてくる)のです。この呼吸の詳細は、小林信子先生の『静坐入門』に書かれています。信子先生の呼吸は、最初は胸が動く呼吸で、岡田先生からも注意を受けていました。「ある日電車の中で胸に手を当てておりましたら、吸気の時に、抑えていた手が押し上げられるので、ああこれが先生のお目にとまるのだと気づきました。と同時に、先生が一番初めに仰ってしたすった御言葉≪息はすわなくても勝手にはいって来るのです≫を思い出して、こんどは下腹に力を入れながら胸をしっかりと押さえて動かないようにしていて、下腹の力を抜きましたら、胸の手は少しも押しあげられないで、おとしていたみぞおちのところが、自然とかるくふくれ(うき)ました。そして息はひとりでに鼻からすうーとはいって来ました。」鳩尾でする呼吸を発見し、欣喜雀躍された御様子がよくわかる文章です。
心の持ち方
姿勢と呼吸に気をつけるということは、人間の趣味として大変高級な趣味であります。静坐中の心の持ち方は「姿勢と呼吸以外のことは考えない」ということに尽きます。
例えば、静坐して健康になろうとか、成功しようとか、悟りを開こうとか、そういう目的や行く先を忘れて坐ることだと思います。姿勢に気をつけながら、「今の一息一息に集中する。専念する。油断しない。一心に坐る」ことが重要だと思います。
坐ればよくなると分かっているから、何も考えず、安心して坐れるのだと思います。
好きな言葉(岡田先生の語録より)
岡田先生の語録から、私の好きな言葉を取り上げてみます。先生のお言葉は読む人それぞれの心に応じて意味を示してくれます。
「道を歩くことは静坐に効多し」
これは歩くことを推奨されたものですが、私はこの言い方が面白く、「○○は静坐に効多し」と拡大して使っています。
例えば、「階段を上ることは静坐に効多し」と思えば、階段を上ることが苦でなくなります。「人の嫌がる事をすることは静坐に効多し」と思えば、嫌な仕事も歓迎すべきことになります。
静坐は手段ではなく目的です。静坐以外のことを静坐のために行うという語法がたいへん面白くて愛用しています。
「わが心は一歩一歩にあって頂上にあらず」
これは王陽明が弟子に向って言った言葉とされます。山の麓まで来た時、王陽明は弟子に向って「諸君の心は山頂にある。ゆえによく疲れる」と言い、私の心は一歩一歩にあるから疲れないと言ったのです。
これなどは、まったく静坐の心に通じていて、行く先を忘れて一息一息を楽しみ味わう。そうしているうちに、いつの間にか、よい境地に至っているという考え方です。読書でもあと何頁という読み方では疲れます。一頁一頁を味わって読めば、長編小説もいつか読了します。人生も先々のことを大切にして生きたいものです。
「易に曰く、道は満盈を忌むとかや。何卒生涯生徒たるの御覚悟あらんことを」
この中の「生涯生徒たるの御覚悟」が、私の大好きなところです。
「生徒の心」は学ぶ心です。学ぶ人は自分の未熟さを知っていますから常に謙虚です。この心を持ち続けている限り、学びが成立し、進歩発展があります。しかも「生涯」生徒であるわけですから、はたから見たら達人の域に達していても、本人は「生徒の心」を決して忘れません。慢心を起こした瞬間に進歩発達が止まることをよく知っているからです。
生涯学び続ける心をもって静坐することの素晴らしさを教えてくれる言葉です。