静坐の友(季刊誌)

第17号 夏の実習会の変遷 三重静坐会 藤井 英昭 氏

「どうして静坐会という名前を知ったのか」という質問を栗田英彦君から受けた。中外日報という宗教新聞に小林信子先生が文章を書いておられ、それを高校時代に私が読んでいたというのがきっかけである。なぜ読んでいたかというと、その頃私は神経衰弱気味だったからです。皇太子妃の雅子妃殿下の記事を総合雑誌で見るととても痛ましい気持になる。この病は自分で気分転換は出来ないし、集中力も続かない。幸い私は静坐のご縁を頂き、薄紙を剥ぐようにこの病から抜け出ることが出来た。実際に小林先生にお会い出来たのは、昭和三二年九州の睴峻康瑞君の紹介でした。

 昭和33年か34年の夏の静坐実習会は静坐社で三日間あった、三日目は比叡山へ連れていってもらい、そこで静坐をし、論湿寒貧という言葉を教えてもらった。下りてきて京の街で児玉先生のおごりでビールをご馳走になった。その時みどり先生のご主人はフラフラと静坐社へ向かって歩いて帰られた、と私が感想文を書いたら、その部分だけカットされた。

 静坐社以外にも信子先生には色々お世話になった。お茶を教えておられ私は飲む方のお客の代理をさせられた。鈴木大拙、金子大栄、足利浄円先生のお話を聴くお伴を命じられた。自照会の足利先生は「阿弥陀様に願い事をお祈りするのは間違っている。実は反対に阿弥陀様が我々一人一人を拝んでみえる」と説教された。

 柳田先生は今日とホテルに泊まられ時に奥様も一緒だった。奥様は後ろに座られた。静坐社がだんだん手狭になり、農林会館に実習会が変わった。夜寝てからカミナリがなったことがあった。私が知らなかったと言うと、児玉先生が豪傑だと褒められた。単なる疲れでぐっすり寝られたと信子先生が言われ、正解だと思った。

 現実にはみどり先生に動いて頂いた。それで私の静坐が上達したかというと全然、しなかった。今まで熱心にご指導願った先生方は曽我に任せようとなった。一方曽我の方は成徳では島田さんに懇切に指導したくせに一緒に酒とタバコを喫っただけ。亡くなった後静坐関係の書類全部を預かっただけ。

 やっとここ二、三年静坐とまともにつきあっている。